【世界遺産】中世の雰囲気が色濃く残るヴァルトブルク城

言わずと知れた古城大国のドイツ。北から南まで数々の古城が点在し、それらの一部は現在でも博物館、ホテル、研究室などとして使用されています。

そんな数ある古城の中でも、積み重ねてきたた歴史の長さと保存状態の良さで他を圧倒しているのが、中部テューリンゲン州にあるヴァルトブルク城

今回は1000年以上を誇るヴァルトブルクから、城の歴史や中世の趣が色濃く残る部屋の数々を紹介。ルターやノイシュバンシュタイン城を造らせたルートヴィヒ2世など、ゆかりのある人物も踏まえながら城の魅力に迫ります。

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1000年以上の歴史をたたえるヴァルトブルク城

この城の長い歴史が始まるのは、1067年のこと。テューリンゲンの伯爵ルードヴィヒ・デア・シュプリンガーが狩りの途中に山を見つけ、その上に現在のヴァルトブルク城の前身となる城砦の建設を命じました。

シュプリンガー伯爵亡き後、1157年~1170年にかけて居館部分が建設されます。そして19世紀後半にはザクセン=ヴァイマル=アイゼナハだったカール・アレクサンダー大公が大規模な修復を行い、現在の姿となりました。

その外観を言葉で例えるのであれば、丘の上から睨みをきかせている中世の騎士という言葉がぴったり。城内には後期ロマネスク様式のほか、ゴシック、ルネサンス、そして歴史主義建築の要素も散りばめられています。

ヴァルトブルク城といえば「ルターの聖書翻訳」を思い浮かべる方も多いかもしれませんが、この城が辿ってきた歴史はそれだけではありません。

13世紀にここで繰り広げられた歌合戦や、4歳でハンガリーから嫁いできたエリザベート、ドイツ統一と自由、平等を求めて学生たちが集結したヴァルトブルク祭(1817年)など、実に多彩な歴史がこの城に隠されているので

ドイツ史における重要な場所として、1999年には世界遺産に登録されたヴァルトブルク城。今から10年以上も前ですが、私が初めてドイツへ来た目的がまさにこの城だったので、勝手につながりを感じていたりもします。

宮廷歌人が繰り広げた歌合戦

ヴァルトブルク城が黄金時代を迎えたのは13世紀。ミンネゼンガーと呼ばれる宮廷歌人たちが城にやってきて、この「歌合戦の間」で抒情詩の腕を競い合いました。集まったのはヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハやヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ、ハインリヒ・フォン・オフターディンゲンなど中世を代表する抒情詩人6名。

グリム兄弟が1816年に執筆した「グリム伝説集」にも取り上げられている様に、この歌合戦の様子はその後何世紀ものあいだ語り継がれ、文学作品などに大きな影響を与えました。ドイツを代表する作家のE.T.A.ホフマンやノヴァーリスの作品にもインスピレーションを与えましたが、特に有名なのはワーグナーのオペラ「ターンホイザー」でしょう。

部屋には1855年にオーストリアの画家モーリッツ・フォン・シュヴィントによって描かれたフレスコ画があり、歌合戦の様子が再現されています。この画のおもしろいところは、群衆のなかに城と縁のある人物たちが描かれているということ。

城を博物館にすると発案したゲーテのほか、シラー、ルター、修復を命じたカール・アレクサンダー大公、そして右端にはこの画の作者であるシュヴィント本人も描かれているのです。遊び心が含まれていて面白いですね。

4歳で嫁いできたエリザベート

ヴァルトブルク城の中で息を呑むほど豪華絢爛なのが、壁と天井がモザイク画で覆われた「エリザベートの間」です。

後に聖エリザベートとして列せられるようになるこの女性は、わずか4歳のときにルートヴィヒ4世の婚約者としてハンガリーから嫁いできました。若すぎる年齢からも分かるように、これは政略結婚でした。

2人が結婚したのは、エリザベートが14歳のとき。しかしその6年後にはルートヴィヒが十字軍遠征中に亡くなり、20歳の若さで未亡人となります。彼女は追われるようにしてヴァルトブルク城を去り、紆余曲折を経てたどり着いたのがマールブルク。この地で病院を建てるなど病人や貧しい人々のために身を捧げ、その後24歳で亡くなったのでした。

マールブルクには彼女が建てた病院跡が今でも残っています。


病院跡のすぐ近くにあるのは聖エリザベート教会。中世の間はここに彼女の墓および聖遺物が祀られ、巡礼する者が後を絶たなかったのだそう。教会はドイツで最も古いゴシック建築のひとつであり、ケルン大聖堂のモデルになったとも言われています。

話をヴァルトブルク城に戻すと、「エリザベートの間」にはそんな彼女のはかない一生がモザイク画で描かれているのです。

彼女の生涯は別の通路にも描かれています。

ルターの聖書翻訳

後のドイツ語発展に大きな影響を与えた、ルターの聖書翻訳。とはいえ彼が言語学云々に興味があったわけではありません。

「95ヶ条の論題」を発表したことで、教会とのあいだに論争を巻き起こしたルター。教会を破門されたばかりか、帝国追放の刑にも処されてしまいます。この処分が決定する前に逃げ出したルターは、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世に助けを求め、ヴァルトブルク城にかくまわれながら聖書の翻訳を行いました。

彼が聖書を翻訳した目的は、民衆のなかで聖書や信仰への理解を深めるため。ラテン語などで書かれた聖書は聖職者や一部の学者しか読むことができず、中世の人々は内容をなにも理解していませんでした。

腐敗しきったカトリック教会がやりたい放題なのは、民衆が聖書の意味を理解していないからだと考えたルター。彼らでも読めるよう、民衆が使うドイツ語に近い形で聖書の翻訳をしたのです。ルターはこれによって人々が正しき道に導かれ、教会への依存から脱することができるようにと期待したのでした。

ルターが作業をしていた部屋は、城のどの部屋よりも質素なもの。この禁欲的な部屋の中で翻訳作業をしながら、彼自身も「聖書とはなにか、信仰となにか」を問い続けたのでしょう。

まずはじめに取りかかった新約聖書の翻訳はわずか11週間で完了。ルター訳の新約聖書は同じころ発明された活版印刷術によって瞬く間に民衆のあいだに広がり、宗教改革を支えたのでした。

ルートヴィヒ2世も感動した「祝宴の間」

今日でも現役で使用されているのが、重厚かつ優雅な雰囲気に包まれた「祝賀の間」。素晴らしい音響効果を活かした演奏会や「ターンホイザー」の演劇上演など、文化イベントが頻繁に開催されています。

部屋は19世紀後半にカール大公が行った大規模修復で現在の姿となり、理想としての中世の様子が忠実に再現されました。

そして、この部屋の美しさに心奪われた1人が、後にノイシュヴァンシュタイン城を建てたルートヴィヒ2世。彼の感激はよほど大きかったみたいで、ノイシュヴァンシュタイン城にこの部屋を模した「歌人の間」を造らせたほど。

ちなみに、ルートヴィヒ2世はワーグナーの熱狂的なファンでもありました。だからだと思いますが、ノイシュヴァンシュタイン城の内部には「ターンホイザー」のほかにも「トリスタンとイゾルデ」、「ローエングリン」などワーグナー代表作の各場面が描かれています。

ヴァルトブルク城の基本情報、アクセス

ヴァルトブルク城は、アイゼナハという町の背後にそびえる山の上にあります。地図で見るとちょうどドイツの真ん中あたり。

アイゼナハまで各都市からの電車での所要時間は以下がめやすです。

フランクフルト:
乗り換えなしで1時間50分

ライプチヒ:
乗り換えなしで1時間10分
エアフルト乗り換えで2時間

エアフルト:
乗り換えなしで30分

アイゼナハの駅からはバス10番に乗り、終点の「Eisenach, Wartburg」で下車。バスは1時間間隔で走っていて、所要時間は20分です。

バスを下車したら山道を10分ほど登るとヴァルトブルク城に着きます。

また車の場合は駐車場があります。

営業時間などは以下を参考にしてください。

ヴァルトブルク城

【住所】
Auf der Wartburg 1, 99817 Eisenach

【ガイドツアー】
8:30~17:00(4月~10月)、9:00~15:30(11月~3月)

※城内はガイドツアーのみで見学可能。ドイツ語での開催ですが日本語の説明書きを貸してもらえます。英語のツアーは13:30~。

公式ホームページ

 

おわりに

1000年以上もの歴史を現代へと伝えるヴァルトブルク城。それぞれの部屋で繰り広げられてきた出来事やゆかりの人物に思いを馳せながら、いっときの中世へのタイムスリップを楽しんでみてはいかがでしょうか。

ヴァルトブルク城は私にとっても思い入れの強い場所なので、この投稿で城やここでの歴史に関心を持ってもらえれば嬉しいです。

またエリザベートの章で紹介した町マールブルクや、ルターが教会に「95ヶ条の論題」を張り付けた町ヴィッテンベルク共に、旧市街が美しい素敵なところ。興味がある方はこちらにも足をのばしてみてください。

ヴァルトブルク城を含むドイツの素敵なお城については、「古城大国ドイツの美しい城10選」で紹介しています。

 

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